兵役と参政権

404 Blog Not Found: There Ain't No Such Thing as a Free Voteにて

本書の世界において、有権者は兵役経験者に限られているのだ。

権利の平等という点においては、これはなかなかの妙案に思える。「国のために命を捧げる気概があるものだけが、国の行く末を決定する権利がある」というわけだ。

議論の本質とずれた一部分だけにツッコミを入れるのもどうかと思いつつ、これはとっくの昔に破綻した議論。妙案と言われると違和感を感じてしまう。

たしかに古代ローマの最古層では市民=兵役の義務を負担する――正確には負担できる――者だった。彼らは我が身をかえりみず、私財をなげうって、文字通り命をかけて前線で戦い、自分たちの街を守った。そんな彼らが自分たちの街の行く末を決める政治に参加するのは当然のことだった。とどのつまり、命をかけて戦うか、膝を屈して講和するかを決めるのは自分たちの権利である――それが参政権の本義だったわけだ。

ところが、その後、時代が下るにつれて様相が変わってくる。理由は様々なれど、多くの兵士が有力者の私兵となった。私兵となったのは彼らがいささか貧しかったからだ。彼らは一家の大黒柱が――農作業をほっぽって――戦いに出ている間、一家を支えられるだけの財がなかった。だから、究極的には国のためではなく、給料をくれる有力者のために戦った。その後、彼らの多くが戦いの報酬に市民権を、参政権を得たが、それまでの有資格者とはやはり政治家としての、また参政権を持つ者としての質が異なってしまった。彼らは完全に独立した個人ではなかったから、パトロンに「干すぞ」と言われただけで物を言えなくなってしまった、もっとも、旧来の有資格者たちも、私兵が前面に出るようになって発言権を失っていった。勇敢な者たちはあっという間に前線で散ってしまい、保身と蓄財にしか興味のない臆病者のみが残ったせいもある。共和制はたちまち破綻し、帝政が始まった。

今の日本において、政治家というのはもっぱら四年から六年で罷免可能な木っ端役人に過ぎない。中には蓄財の結果有力者と呼ばれるようになる者もいるが、その彼らが「国のために命を捧げる気概があるもの」かというと、失礼ながらいささか疑問だ。前線に立って命を張る気概があるかというだけでなく、彼らは好きこのんで国民に、あるいは別の者たちに雇われたがっているように見える。最近は恩知らず、恥知らずな雇われ者も多いが、雇われ者に究極の判断をする資格などない。

では、納税者たる、本来彼らの雇い主たる国民は?

理屈の上では、最終決定権は彼らにあるはずだ。少なくとも意に添わぬ者を選挙で罷免し、本当の代弁者を送り込むのは自らの権利であり、自らを守りたいのであれば、義務と言ってもよかろう。

ところが、ややこしいことに、納税者たる国民も、たいていは被雇用者だ。被雇用者の意識が抜けきらないから、なかなか国家経営の視点を持てず、自らの利益になるかどうかのみで政治家を判断してしまいがちになる。また、そのような判断を続けてきた結果、意に添わなくなった雇用者を罷免しづらい(きわめて一票が反映されづらい)環境を押しつけられてしまった。

かくして堂々巡り。機を見るに敏な者のみが混乱に乗じてうまい汁を吸い、国民は国家もろとも沈没しつつある。そこに、カエサルとなるかヒットラーとなるかはさておき、帝政を敷こうとする者があらわれた、あるいは、あらわれて久しいというのが現状だろう。ローマの皇帝は、長らく市民の第一人者を名乗っていたものである。

いずれにしても、近代戦において、兵士が前線で命をかけるようでは負け戦と言っていい。文字通りの前線に立つことはすでに偉いことでもなんでもなくなっている。彼らには自らの進退を自らの判断で決める権限がない。軍隊のシステム上、もとより一般兵に(狭い意味での)参政権などありえないわけだ。その意味で、兵役と参政権を結びつけても何の意味もない。ましてこんな小さな島国の場合には。

しかし現在の世界では、軍事力はむしろ内に向かって発揮されることが多い。近代国家には軍隊と警察という二つの暴力装置が存在するが、「暴力による強制力の発揮」という点では実は一つであり、またそのように運用されている。20世紀になって急速に民主主義が発達した背景には、軍事力が急速に拡大したという側面も否めない。何かと欠点の多い民主主義も、軍隊の暴走を防ぐには結構な効果があったというわけだ。

もちろんそれが裏目になる場合も多い。特に民主主義は「自己破壊力」が強く、崩れるときにはあっという間に崩れる。別にエピソードIIIを持ち出す必要もなく、20世紀には民主主義が自己破壊した例が数多く見られる。かつての日本もその例外ではなかったし、現在もその兆候が見られる。

少なくとも投票権を持つものは、その危うさを自覚しているというのは最低必要条件に思われるのだが。

「民主主義」が軍事力の暴走を防いだ、というくだりには強い違和感を覚えるけれど、すぐさま反論できる証拠がないのでとりあえず沈黙。最後の一文には諸手をあげて賛成ですね。それをどう判断するのかが問題ですが。

それに賛同するかどうかはさておき、先の一文はたぶん「国のために命を含めた私財を投じる気概があるものだけが、国の行く末を決定する権利がある」と書き直しておいた方がすっきりしたんだろうと思います。より正確には「本人が国から受けるサービス以上の私財を」かもしれませんが。