The amorality of Web 2.0に付け足す蛇足

すっかり出遅れた感のあるエントリですが、Six ApartMena Trott女史が先日のLes Blogs@パリで派手な失言をしてしまったというネタが海外のブログ界隈でちょっとした話題になっていたようで。

――という話を振っておいてナンですが、女史の失言自体は、実はどうでもいいんです。女史にassholeと呼ばれてしまった

Ben Metcalfe が「Patronizing と感じた」と言っているように、「文明人である Six Apart CEO 様が無知蒙昧な Blogosphere の野蛮人を啓蒙する」的なイメージを与える

スピーチを聴いて、ヨーロッパのブログ界の人たちが鼻白んだというのはある意味当然のことだと思いますが、アメリカ人、それもカリフォルニア系の人たちがその辺に無頓着なのはいまに始まったことじゃないですしね。

あまり適切な比喩ではないかもしれないけれど、京都や奈良の、特に旧家の人たちが、ぽっと出の東京モンに、あるいは道産子に、品格とか、お公家さんのたしなみとかいう話をされたときにどう感じるか、といえば日本人にもわかりやすいんじゃないかと思う。

女史が最初に使ったcivilityという単語、その辺の辞書には「礼儀」とかなんとか書いてありますが、もとを正せば「civilであること、civilのすること」という意味。もちろんこのcivilは「市民権を持つ人」のことであり、文脈によって、文明開化されていない野蛮人と対比してのcivilになったり、奴隷とか、征服民に対してのcivilになったりするわけですが。

それを、たかだか四百年程度の歴史しかない、それも本家ヨーロッパで食いっぱぐれた連中が移民してつくった国でしかないアメリカの、しかも東海岸で食いっぱぐれてフロンティアへと移住していったような連中(の子孫)が、もう千年くらいは歴史のあるヨーロッパの現エスタブリッシュ連中の子孫の前で語ったら。

もちろんそこで「余計なお世話だ」と言い返すのは簡単だけど、そんなことを面と向かって言わないのがcivilityというもの。女史に名指しで批判されたMetcalfe氏に対して「面と向かって批判しないなんて腰抜けのすることだ」なんて批判もあったようですが、そりゃあcivilityの何たるかもわかっとらん、的はずれな意見というものありましょう。

そんなレベルのやりとりだけなら「微笑ましいねえ」の一言でスルーしておけばいいし、実際一度はスルーしたんですが。

ここでぽつりと毒を吐いたNicholas Carr氏の「Utopias are great - until people start moving in(ユートピアはいいねえ――人がいないうちはだけどさ)」というコメントに、はてなブックマークのコメント欄騒動を思いつつ、リンクをたどって標題のThe amorality of Web 2.0というエントリにたどりつき、さらにそこから枝葉をたどって、なんだか激しく誤解しているコメントにたどり着いてしまったので、ちょろっと蛇足を書き足してみようかなと思ったのです――というのが本稿の長い長い前置き。


さて、このThe amorality of Web 2.0というエントリ。10月3日付けだからチト古めですが、内容はもうタイトルに書いてある通り、Web 2.0は見えざる神の手に導かれた福音なんかじゃない、良心なんて持ち合わせていない(amoral)、無機的なソフトとハードの組み合わせでしかないのよ、という話。

この問題をアメリカの現代思想史の流れのなかでとらえた記事を読んだのは初めてだったのでえらく感心してしまったのですが(念のため、私はWeb 1.0とかWeb 2.0とかいう枠組みにはまったく関心がありません)、なるほど第二次世界大戦とそれに続いた朝鮮戦争のおかげで特需にわいた50年代から、泥沼のベトナム戦争を経て、ニュー・エイジとかなんとか呼ばれるモラトリアムな時代に至る一連の流れと、Web 1.0からWebの商業化時代を経てWeb 2.0へと続く流れ、ついでに言えば湾岸戦争以降、50年代(以前)に対するレトロ・ブームにわいた90年代後半を経て、ミレニアム、そしてイラク戦争へと続いた一連の流れを並べてみれば、Web 2.0、とりわけカリフォルニア系企業が言うそれは、Web 1.0から独自に発展したものというより、時代の空気をWebに投影したものと考えた方がよいのかもしれないとは思うし、Web 2.0にまつわる発言のなかに個人またはそれに類する特定少数の仕事に対する不信感と、大衆(というか、この場合特定の考え方、信仰を持つにいたった特定多数)に対する過剰な信用とが感じられるものが多いのもあながち不自然なことではないように思えてきます。

そんな背景を念頭に置いたうえで、以下、Carr氏の原文を引きながら後半部分をちょろっと詳しく見ていきますと(以下、原文の下に添えた日本語は大意、超訳です)。

The promoters of Web 2.0 venerate the amateur and distrust the professional. We see it in their unalloyed praise of Wikipedia, and we see it in their worship of open-source software and myriad other examples of democratic creativity. Perhaps nowhere, though, is their love of amateurism so apparent as in their promotion of blogging as an alternative to what they call "the mainstream media."

Web 2.0の推進派にはアマチュア礼賛とプロへの不信感が感じられる。Wikipediaしかり、オープンソースしかり、ブログしかりだ)

ここでオープンソースを持ち出したのはいささか不適切だったと思いますし(オープンソースについてはプロが金をもらって作業している事例も多いので)、WikipediaやブログがWeb 2.0なのかという問題についてもいささかの留保を感じずにはいられませんが、ここで大事なのは「アマチュアだってここまでできるし、プロなんてたいしたことないじゃないか」というWeb 2.0推進派の気持ちが――というか、本質的には彼ら自身が属しているアマチュア側の思い上がりが――感じられる、ということ。

I'm all for blogs and blogging. (I'm writing this, ain't I?) But I'm not blind to the limitations and the flaws of the blogosphere - its superficiality, its emphasis on opinion over reporting, its echolalia, its tendency to reinforce rather than challenge ideological extremism and segregation. Now, all the same criticisms can (and should) be hurled at segments of the mainstream media.

(もちろん私はブログを応援しているし、自分でも書いているわけだけど、ブログの欠点も認識している。話は薄っぺらいし、事実より意見を重視してしまう側面はあるし、猿まね、劣化コピーは多いし、極論とか差別に対して戦うどころか助長してしまう傾向もある。もちろんこれは既存メディアにも言えることだけどね)

And yet, at its best, the mainstream media is able to do things that are different from - and, yes, more important than - what bloggers can do. Those despised "people in a back room" can fund in-depth reporting and research. They can underwrite projects that can take months or years to reach fruition - or that may fail altogether. They can hire and pay talented people who would not be able to survive as sole proprietors on the Internet. They can employ editors and proofreaders and other unsung protectors of quality work. They can place, with equal weight, opposing ideologies on the same page.

(ただし、一流どころともなれば、メディアはブロガーにはできない重要な仕事もしている。たしかにブログに比べたら裏方の地味な仕事も多いけれど、深みのある、あるいは時間のかかる研究記事を書くのに必要な出資をしてくれるのはメディアの方だし、編集者や校正者のような、目立たないけど記事の品質を高めるうえで重要な役割をはたす人をやとってくれるのもメディアの方だ。対立するイデオロギーをバランスよくとりあげることができるのもメディアならではといえる)

まあ、あくまでat its bestの話です。どこがat its bestなのかとか、詮索しないように。

And so, having gone on for so long, I at long last come to my point. The Internet is changing the economics of creative work - or, to put it more broadly, the economics of culture - and it's doing it in a way that may well restrict rather than expand our choices. Wikipedia might be a pale shadow of the Britannica, but because it's created by amateurs rather than professionals, it's free. And free trumps quality all the time. So what happens to those poor saps who write encyclopedias for a living? They wither and die. The same thing happens when blogs and other free on-line content go up against old-fashioned newspapers and magazines. Of course the mainstream media sees the blogosphere as a competitor. It is a competitor. And, given the economics of the competition, it may well turn out to be a superior competitor. The layoffs we've recently seen at major newspapers may just be the beginning, and those layoffs should be cause not for self-satisfied snickering but for despair. Implicit in the ecstatic visions of Web 2.0 is the hegemony of the amateur. I for one can't imagine anything more frightening.

(ところが、インターネットのせいで、クリエイティブな仕事、文化の価値観が変わりつつあるし、それで選択肢が広がるなら結構なことだが、実際には選択肢が狭まる方向に進んでいるから困ってしまう。Wikipediaなんてブリタニカ百科事典の劣化コピーにすぎないんだろうけど、アマチュアがつくっているおかげでタダで読める。そして、悪貨が良貨を駆逐するのは世の常だ。そうすると、こういった辞典を支えてきた裏方さんたち、伝統的な新聞・雑誌で記事を書いてきた人たちは食いっぱぐれて死んでしまうことになるし、実際、そういうことが起こりつつある。Web 2.0推進派の人たちは恍惚としてすばらしい未来のことを語っているけど、内実を見れば、彼らのしていることはアマチュア支配の推進なんだ。個人的にはこれほどおぞましいことはないと思う)

楽観的な人は「価格破壊によるパラダイムシフトが起こって既存のプロが食いっぱぐれることがあろうと、いいものには金を出すという人はいるんだから、悪貨良貨なんてことにはならない」とか、「大事なのは誰がつくったかじゃない(プロがつくろうとアマチュアがつくろうと関係ない)、大事なのはコストと中身だ」とか言うんですが、まあ、こんなことを言う人が「中身」のあるものをつかめる可能性はないと言ってよいでしょう。

どんな分野の話であれ、少なくとも一流のプロなら、誰が言ったのかわからない情報になんて手を出しません。情報を扱うときの基本中の基本ですもの。情報の価値を決めるのは誰が言ったか――より正確に言うと、その情報の正しさを誰が担保してくれるかです。この人なら嘘は言わない、この人なら又聞きの情報でもきちんと裏を取ってくれているはずだ――そんな信頼の連鎖が情報の価値を生むんです。

思い上がったアマチュアに限って「自分には見る目があるから大丈夫」なんて言うわけですが、「自分の目」で見える範囲なんてごく限られています。よしんば自分の目を頼りに源流の源流までたどっていく、たどっていける人がいるとして、その裏付けにかかるコストがどれほどのものになるか。

本当に同等の情報を得ようとしたら、「信頼できる」プロ同士の信用の連鎖を頼った方が安くつくのは当然なんです。

物品の場合だってそうですよね。ブランドがブランドたりえるのは、そのブランドが素材や製法のたしかさを担保してくれているから。そのたしかさという情報に嘘が混じっている、情報として信頼できないとなったらブランドの価値はたちまち失墜します。

ところが、そういった担保がない、あるいはろくな担保がついていないかわりに圧倒的低コストで流通している情報と、しっかりと担保されているかわりにコストがかかる情報と、どちらに人が群がるか、群がってきたか。

専門書と新書(あるいは漫画)、あるいは世界名作全集と名言集、なんなら原典と翻訳という構図でもいいし、図書館の存在意義と現状とか、新刊本と古書といった構図でもいいけれど、そういった側面からものを見てみればいい。書店に、図書館に、いまどれだけの本が、どのように陳列されているか、考えてみればいい。

既存メディアは、たとえば補助金でじゃぶじゃぶの大学ともたれ合ったり、大衆向け雑本を売って稼いだお金で専門書をつくったり、なんてことをしてしのいできたわけですが、これは何もWeb対既存のメディアという構図にとどまる問題ではないんです。

そんな、きわめて一般的な問題が、バラ色に見えるWeb 2.0の世界でも実際に問題になってきている――ここではそんな一例をあげているだけであって、別にこれがCarr氏の本論というわけではないんですよ、というのが書きたかった蛇足の部分だったり。

じゃあ本論は何かというと、

Like it or not, Web 2.0, like Web 1.0, is amoral. It's a set of technologies - a machine, not a Machine - that alters the forms and economics of production and consumption. It doesn't care whether its consequences are good or bad. It doesn't care whether it brings us to a higher consciousness or a lower one. It doesn't care whether it burnishes our culture or dulls it. It doesn't care whether it leads us into a golden age or a dark one. So let's can the millenialist rhetoric and see the thing for what it is, not what we wish it would be.

(いずれにせよ、Web 2.0なんてものに良心はない。Webなんてたんなるソフトとハードの集合なのであって、見えざる神が宿っているわけではないんだ。だから、信ずる者は救われるなんて言っている奴の言葉はうっちゃって、ありのままの姿を見ようじゃないか)

ということ。標題をもう一度見てみればわかるように、別にWeb 2.0を酷評しているわけじゃないんです。Web 2.0なんてものはあくまでamoralな道具にすぎない。immoralな道具と言っているわけじゃない。それを意識的にか無意識的にか隠蔽して、あたかもWeb 2.0がすばらしいものであるかのように言う一部の推進派、Web 2.0にお花畑を見る論者のオツムを皮肉っているだけ。

Googleでは人間の判断を排除している、すべては機械的に計算された結果でしかないとうそぶいている、なんて論調の記事を読んだ覚えがありますが、敷衍すれば、そういう「機械さま」をありがたがる風潮に警鐘を鳴らしたとは言えるかもしれません。

が、さんざん長くなって、収拾もつかなくなってきましたので、本稿はこの辺で打ち止め。いずれもう少し整理した形でまとめておきたいですね。