駄菓子の始末

祭りが終わって、何が憂鬱かといって駄菓子の始末ほど憂鬱なことはない。

自分も子供の頃、たとえば盆踊りに参加して、駄菓子をもらった記憶はある。でも、それはせいぜいポテトチップスやクラッカーの一箱であって、いま、うちの子たちがかせいでくるような山ほどの駄菓子ではなかった。もしかしたらそれは単に子供の数の問題であって、我らベビーブーマー世代にそんな駄菓子の山を与えていてはいくら町会費があっても足りなかったが、いまは自分の町内の子だけでは祭りひとつまかなえないほどだから、多少ひとり頭の駄菓子が増えようと、たいした問題ではない――

そういうことなのかもしれないのだが。

一回につき二、三十個の駄菓子。はしごを繰り返せばその数倍にのぼるであろうそれを、真正直に子供たちに与えたら、どうなるか。

うちはもとよりガムや飴の類はいっさい禁止というルールでやっているので、子供たちの方も最初からその手のものは取り除いてくれるのだが、それにしたって限度はある。チョコ、グミ、ゼリー、なぜか溜まるうまい棒に、ミニラーメンやらチップスの類……

よそではどうしてるのだろうと思いつつ、うちではこんなもので腹ふくらませてほしくないので、適宜間引いている。親が食べたり、近所の子に回したり、ときにはそのまま廃棄したり。もちろん子供たちにも食べさせないわけではないのだけど、とにかくクリスマスの時期になるとまたドカンと駄菓子が増えるので、それまでには処分しきってしまわなくては、と、こっそり頑張るのだ。

まして、この一ヶ月は我が家のお誕生日月間。妻子三人のためにそれぞれケーキをつくっては食べしてるし、ほうぼうから梨だのブドウだのいただいたりもしている。はっきり言って駄菓子の入る余地なんぞないのである。

もちろん祭りという非日常空間はぜひ体験しておいてほしいと思うし、そこであれこれもらって喜んでいる子供たちの顔というのもよいものなのではあるけれど、できれば何ヶ月も先にまで残る駄菓子の山なんぞより、おみやげはせいぜい一、二品、あとは焼きそばだのフランクだの食べておしまい、くらいにしてもらえる方がうれしいんだけどなあと、胸焼けをおさえつつ、ため息ひとつ、なのである。