そういうのは読むとは言わない

こう、あからさまに釣りだよなあというものに釣られるのもナンだなと思いますが。

デザインスキルを身につけたい人が、デザインやユーザビリティーの本を読むのにけっこうな時間を費やしているのを見ることがある。

そういう人と話してみると、インタラクティブデザインの本質がどうたらアフォーダンスがどうたら認知科学的アプローチがどうたらと、話がやたらと抽象的で、実感がわかない。

(中略)

で、なんでこんなことになるかと考えてみて、その人は、本を「読んで」いるからなんじゃないだろうかと思ったわけですよ。

逆だ。正反対だ。読んでないから言葉にならない。眺めているだけだから、読みが足らないから言葉にならない。

本を「読む」のは娯楽であって、勉強ではない。学習ではない。理解でもない。

なんていうか、本を「読む」ってのは、CDをCDプレーヤーにかけているようなものだと思う。

CD=本、CDプレーヤー=脳、って感じ。

本を読んでいる間、自分の脳内では、他人の思考が再生されているだけで、自分自身は考えていない。本を読むというのは、他人の思考をなぞることでしかなく、その間、自分は「思考」していない。

日頃お書きになっているものを読むだに、こんなことを平気で書けてしまう方には思えないのだが、本を読むって、いや本に限らない、何かを読むって、そんなモノではないし、それをわからず、

というわけで、こんな調子で、個別具体的なUIを切り刻み、本に書かれてあることも「読む」のではなく切り刻み、混ぜ合わせて、他人の思考ではなく自分自身の思考でぐちゃぐちゃとよく噛んで、消化し、自分の血肉にするのが、本質的なデザイン能力を身につける最短コースだと思うわけで。

こんなことをしたところで、本のひとつもまともに読めない人が何かを得られるわきゃあない。

たとえば、ここに一冊の本がある。いわゆる娯楽本ではない。何かを学ぶために読む本だ。

ふつうの人は、その一冊のページを最初から最後までめくれば、すべてをわかった気になってしまう。

もうちょっと読める人だと、最初から最後までめくったあと、もう一度記憶に残った部分を拾い読みする。

もうちょっと読める人だと、まず目次を熟読して、本の全体像をつかんでから読み始める。

この辺からは順不同だが、だんだんわかってくると、その本を読む前に書評を漁るようになる。別に世間がどう評価しているか知りたいわけじゃない。どういう背景の本なのかを知るためだ。

もちろんその著者の重要な著作は一通りおさえているだろう。

その著者に対する批判も熱心に調べるはずだ――信者に安住したくなければ。

参考文献などでしばしば名前の出てくる業界の代表作も広く渉猟しているに違いない(よくわからないものもあっただろうが、それは仕方のないことだ)。

そうしてあるとき閾値を超えると――ふとした拍子に気がつくときがくる。「これはどこかで見たぞ。成功、あるいは失敗に終わったアレにそっくりだ――」

あるいは、そのひらめきはこうかもしれない。「自分はこの分野の主要な本はあらかた見てきたつもりだが、それでもこれは初めてみるぞ――もしかしたら大発見か!?」

もっとも、たいていの場合、上のひらめきは読みが足りない結果でしかない。「その分野」の本はあらかた見たつもりかもしれないが、その著者の一生が「その分野」だけで塗りつぶされていたなんてことはありえないのだから。

冒頭に出てきた「けっこうな時間(を費やしている)」というのがどの程度のものかはわからない。だが、せいぜい本の数冊程度をぐだぐだながめているのを「けっこう」などと言っているのだとしたら、噴飯物だ。たとえば数百、数千を読んだあとで、

また、単に他人の思考を再生するだけでは、新しい脳神経回路ができたとしても、それが、自分自身の中核回路と密結合せず、なんか、辺鄙な飛び地のような、交通の不便な場所に作られた立派なビルのようなもので、結局、そこは中核回路との行き来が不便すぎて、使えない建物になっちゃうんじゃないかと。

そのような飛び地ができてしまうのであれば、その本が内包していた突拍子もない概念(コペルニクス的転回)のせいにすることもできようが、せいぜい数冊、十数冊のレベルで飛び地があったからって、それは読みの絶対量が足りず、橋渡しをしてくれるものがないせいでしかない。たとえて言うなら、いくら漢字を習ったからって、小学生の子供が理論物理学の最先端の資料を読みこなせないのと同じ話なのであって、そこでああだこうだと思考実験してみたところで、小学生のレベルじゃ(よほどの神童でもない限り)理論物理学の最先端の資料と正対できるような意見が生まれるはずもないのである。


ま、ポール・グレアムも言ってましたっけ。自分たちの強みとなる秘密はもらすなって。

それに対して、そんなこと気にすることないやんと言ったロバート・モリスのせりふがふるっていました。「だって、それが理解できるくらいなら、もう××しているはずだよ」

Lispと読書を比べるのもどうかと思いますけどね。「読む」って言葉も軽くなったもんだなあと思ったことでした。