量子的自我という言葉はよいと思うが

例によって議論がチト粗いですなあ。

英語では「個人」のことを"individual"と言う。この言葉、"indivisible"にそっくりだ。「分けられないもの」。そう。「これ以上分割できない者」が individual である。"atomic"と言ってもいいだろう。そう。現時点における自我というのは「粒子的」だと解釈されている。

(中略)

もし本当に自我が粒子的だとしたら、そもそもcommunicationがありうるのだろうか?ヘリウム原子とヘリウム原子を衝突させても、通常はお互いに弾かれてあさっての方向に飛んで行っておしまいだが、人と人がぶつかったら、必ずお互いの自我は変化する。腹をたてるかも知れないし恥ずかしいかもしれないし怖いかもしれないが、とにかく衝突前の自我と衝突後の自我はもう同じものではない。

(中略)

粒子的でない故、私はこれを量子自我と呼んでいる。

その粒度で「粒子的」というのであれば、仮に何ものかと衝突して内部になにがしかの変化が起ころうと「粒子的」であることに違いはない。例の Cogito ergo sum. である。Cogito「我思う」の中身が何であろうと、sum「我存在す」という事実に変わりはないわけだ。科学的に言うなら、放射性元素のことでも思えばいい。半減期を迎えた原子と、そうでない原子と、うるさいことを言うなら中身は異なるわけだが、それをもって量子的という概念を持ちだしてよいものかどうか。

ついでに言うと、中段で同じ粒子同士をぶつける話になるのもいささか唐突だ。SciFiよろしくタイムスリッパーが過去の本人と出くわしたらどうなるか、という話を引き合いに出すのもどうかと思うが、まあ、そういうことである。その変化を起こす他人という粒子は、本当に自分という粒子と同じものなのか。たまたま現行の(少なくとも日常的なレベルにおける)科学界では原子の数は限られているという前提で議論を構築しているが、その前提をそのまま人間界の比喩に適用できると考えては議論が崩れる。

以降の議論については特に触れないが、量子的自我という言葉そのものはとても魅力的だ。Cogito ergo sum. のゆらぎをぴたりと言い当てている言葉だと言ってもよい。その瞬間、その瞬間に「本当らしい」自分は存在するが、「本当の」自分が存在することは証明できない――だからこそ、我々は皆悩む――そんな意味で持ち出したのであれば、うかつに所有権の話に持ち込んだりせず、逆にその意味でのみ使った方がよいと思う。いまの用法では、とても粒子の枠を越えた概念になっているとは言いがたい。

せっかくだから、こちらからもネタを振っておこう。人間はなにゆえに太古の昔から酒を飲んできたのだろうか? なにゆえに踊りというものが発達したのだろうか? 酔い、陶酔とはなんなのだろうか?