所有と帰属の違いが問題なのではないのだ

my wifeがI have a wife.を含意すると認める限り、所有と帰属の違いは心理的な負担感の違いでしかない。万が一にもそのレベルの話をしているのであれば、それは単なる言葉遊びだ。

そうなのだ。実は「の」には「所有」だけではなく、「帰属」の意味も含まれている。そして後者の概念は、所有と似ていて実は正反対に近い概念でもある。私「の」妻を、私は所有してはいない。しかし彼女は確かに私に「帰属」していて、そして私は彼女「の」夫である。

歴史的に見れば長らく妻というものは可処分財産のひとつにすぎなかった、という話はさておくとして、少なくとも英語という枠組みで、あるいは同種の言葉でものごとをとらえようとする限り、「私の」妻と言ったときの「私の」はまず間違いなく所有の意味だ。それはgenitiveという言葉を使おうと、possessiveという言葉を使おうと、大差ない。あえて先のエントリを書いたのは、同じgenitiveという語形を使っていても、所有以外の意味になることもある、その関係は単なる所有にとどまらないということを指摘したかっただけである。

では、本当の問題は何なのか。

その「所有」という概念を担保してくれるのは誰なのか、ということだ。

たとえば自分の手、自分の顔。こういったものについては、生得のものとしてひとまず問題ないだろう。

だが、たとえば土地というものを考えてみる。たとえば、東京都××区に土地付き一軒家を持っているAさんの、土地所有を担保してくれるのは誰か。その担保してくれる、おそらくは日本という国の、国土を担保してくれるのは誰か。

法だ。特定の範囲内でしか通用しない法が幾重にも重なった結果が、Aさんの土地所有を担保してくれているわけだ。

では、この法とは何か。Aさんの土地を、「いや、ここは私の土地だ」と(勝手に)主張するBさん、Cさんが、お互いの共存をはかるため、それぞれの我を殺して従うことにした紳士協定だ。

もちろんそれはただの紳士協定であるから、一部、あるいは全体を通じて従わないこともできる。国際法には従うが、国内法には従わない、あるいは国内法にも従うが、東京ローカルのルールには従わない――それは各人の自由だ。もちろん従わない結果何らかの不利益を被ることもあるだろう。利害が衝突した結果、暴力で決着をつけることになるのが世の常だ。だが、法はあくまでも実体のないものだから、従わないと決めた相手に対する強制力はない。それが、たとえばタリバンバーミヤンの大仏の問題だ。

ところで、法にはもうひとつ、当事者以外の意志を考慮しないという特徴がある。当事者間の係争を裁くのが法なのだから当然の話だが、ここで、itというものが問題になるわけだ。

このitは、いわば神の領域だ。神といっても、あの狭量な神ではない。日本人にとってはなじみ深い、八百万の神の世界だ。

そして、少なくとも西洋の、特に比較的新しい時代の考え方によれば、その神ないし神々の世界に属するものは、人間が自由に処分してよいものとされてきた。野山の動植物、あるいは鉱物資源。土地。家畜。これらは神ないし神々が人間につかわしてくださった贈り物だった。

時には、その贈り物のなかに、二本足で立ち、二本の手を器用に使う――奴隷、野蛮人、原住民……歴史的にはさまざまな呼ばれ方をしてきた――ホモ・サピエンスも含まれていた。いや、これはいまでも含まれていると言っていいだろう。

いわゆる「人間様」は、神々からの贈り物を、乱暴に食い尽くすだけが能ではないと知ってからというもの、たとえば養い、増やし、(自分たちのルールをおかさない範囲内での)自由を認め――そして、それらをやはり可処分財産のひとつとして、取り引きしたり、消費したりしている。

だが、その人間様の所有権を担保してくれるのは、いったい誰か?

「自分たち」ではさすがにまずいと思った頭のいい連中は、そこに人間様より上位の存在として、傀儡たる唯一神なるものを考案してきたわけだが、そこにはあえて踏み込むまい。

ただ、この「所有」という概念の根拠の弱さと、かやの外におかれたitの存在、あるいは多層的な法と、先にはあえて我と書いた価値観、あるいは信仰とのせめぎあい――ものごとの価値を語るのであれば、まずは自らがこれらをどのように位置づけるのか、自分はどこに帰属するのか、語らなくては始まらない。

いまどきの人はいわゆる救済宗教ばかりが宗教だと思い込んでいるから無宗教だなどと平気で口にするが、真っ当な宗教で世界創世を語っていないものはない。世界のことわり、価値観を共有するためのツール、それが宗教の本義だ。それがないというのは、どういうことか。

もちろん教義は、少なければ少ないほど、普遍性が増す。ただし、語られない教義は、しばしば恣意的な解釈を生む。恣意的な解釈で不都合が生じないのは、支配者階級がごく限られているか、暗黙の了解が行き渡っていて語らずとも用が足りるかのいずれかだけだ。

なんにせよ、ものごとの価値を語るということは、信仰告白をするということである。

#まあ、思考実験の方はゆっくりやってください(笑